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<1>ストレスと幸福

【解答例A】
本文は「ストレス・パラドクス」という分析を示し、「幸せな生活にはストレスが存在し、ストレスのない生活は必ずしも幸せとは言えない」ことや、「ストレスが多い人の方が愛情や健康に恵まれ、人生に対する満足度が高い」ことをあげる。さらに、これを「生きがい」と関連させて分析し、「生きがいのある人生には、ストレスは付きもの」であると結論づけている。
本文の趣旨はうなずける点が多いが、この結論に私は違和感を抱いている。おそらく「生きがいのある人生」は「幸福」であることが多いだろう。ならば、幸福にはストレスがつきもので、幸福になるにはストレスを受忍し、克服しなければならないのだろうか。この論法には説明不足や強引なところがある。それが私の抱える違和感の内容である。そもそも幸福とは何だろうか。その定義を説明しないまま、ストレスと幸福とを結びつけるのは強引なのだ。
「生きがい」がそうであるように、人によって「幸福」の意味は大きく異なる。経済、健康状態、仕事、生活水準などが良いことだけが「幸福」なわけではない。たとえ貧しくても、病弱であっても、彼や彼女が「生きがい」を持ち続け、「幸福」であることはあり得る。そういう人たちは、自分の状態を「ストレス」と感じておらず、ありのままの自分として受け止める柔らかさがあるように思える。ストレスと戦うだけではなく、戦わない選択も「幸福」につながると私は考える。(592字)

【解答例B】
課題文から分かることは、「ストレス」とは心地よい状態が崩れた時に感じるものだということである。つまり幸福感を強く感じれば感じるほど、それが崩れた時のストレスは強くなるのである。逆に言えば、幸福感を感じることが少なく、苦痛の多い社会ではストレスも少ないということになる。
ストレスとは、刺激に対する適応の高低によるものである。苦しい状態でも、それが長期に常態化すれば、それに適応して生きる力を人間は持っている。しかし、苦しみそのものを感じていないわけではない。少しでも屈辱から逃れたい、楽になりたいという思いは誰にでもあるはずだ。だからこそ、そこから逃れるために人間は様々な努力をしながら社会を築いてきた。ストレスとは、その人間が築いた幸福度の地平を後退させないために働くのではないだろうか。尊厳を奪われ、屈辱と苦しみの中に後戻りさせられそうになった時、それに抗うべきことを心身が知らせているのである。
幸福とはストレスを感じないことではない。また苦しみがないことでもない。人間は常に痛みを持って生きている。知覚は強く働けば痛みである。心も痛む。体が痛まなければ周囲の環境との適応は難しい。心が痛まなければ、人間相互の結びつきは生まれない。幸福とは痛みを抱えながらも、より良く生きているという実感の中に存在するのではないか。

◯類題:人生、思い通りに行かない:杏林大学医学部2017
このテーマについて、思いついたことをあげてみると、これまでの自分の失敗や今後の人生に対する不安など、ネガティブなことばかりが次々と思い浮かぶ。しかし、よく考えてみると、思い通りにいかないのは不可避であるだけではなく、生きていく上で必要不可欠なのではないか。
家族や友人など他者との関係では、私が思っていることと彼ら・彼女らが思っていることが同じではなく、大きく食い違い、鋭く対立することもある。そんなとき、思い通りに行かないと悩み、苦しみ、怒り、悲しむ。人間は一人で生きているわけではない。だから、思い通りに行かないことは不可避なのだ。逆に、思い通りに行くことは他者の思いを無視して私が考え、ふるまうことであり、そこには傍若無人の危うさがある。
このように不可避であることを嘆き悲しむことはない。思い通りに行かないことには、いくつもの可能性が含まれているからだ。たとえば、自分と他者が同じではないことを知り、他者の思いを理解しようと努めれば、人間関係が良好になることも期待できる。また、そうした違いに対して胸襟を開いて話し合い、それぞれの思いが多少なりともかなう次善の結論を得られれば、思い通りに行かないことへのストレスは軽減される。それだけでなく、歩み寄りを経験し、その効果を実感することで、他者との信頼関係が強化されるという副産物も得られる。
以上のように考えると、思い通りに行かないという悩みや苦しみは自分しか見ていないために起こるものであることがわかる。しかし、自分へのこだわりから離れることができれば、思い通りに行かないことを他者との関係でとらえ直し、その価値を発見することができるのである。ただ、そのためには思い通りに行かないときに感情のまま動くのではなく、何が、なぜ、思い通りに行かないのか。そして、これから、どのように考え、行動していけばよいのかを内観する冷静さが必要だ。

○参考情報:レジリエンス(朝日新聞GLOBE+2021年1月1日)

<2>赤ちゃんポストの利用をめぐって


自分が責任を負わなくてはならない子供の命を捨て去るような気持ち。でも、ここで預かってもらえばその命は救われる。他に方法がないのなら、自分では救えなくても、無責任だがこの病院で救ってもらいたい。ごめんなさい。ごめんなさい。でも、これ以上にどうしようもなかった。もし、あなたを育てることができる力が自分についたら、必ず迎えに来るから。今は許してください、という気持ちでいっぱいだった。


【解答例A】
つらかったね⋯⋯。あなたがそんなにつらい思いをしていたのに、何の力にもなってあげられなくてごめんなさい。一緒に行ってあげられるとよかったね⋯⋯。でも、話してくれてありがとう。あなたの選択は間違ってなかったと思うよ。今のあなたの状況から考えれば、他に方法はなかったのでしょう。一人ばっちで、つらい思いを抱えて考えていたんだ。やっぱり、なかなか人には打ち明けられないものね。わたし、気づいてあげられなかったんだね。ごめんなさい。でも、赤ちゃんにとっては、整った環境で、しっかり育ててもらえるのは悪い事じゃないと思うよ。今はつらいけど、あなたがポストの前で「必ず迎えに来る」と思った気持ちは赤ちゃんに届くと思う。私もできる限り応援するから、必ず迎えに行こうね。その気持ちさえあれば、今は仕方がないんだから、そんなに自分を責めなくてもいいんだよ。本当に、話してくれてありがとう。
【解答例B】
まず、彼女が自分の抱え込んでいる苦しみや思いを十分に話しつくすまで、あまり口を挟まずに聞き続ける。それが、苦しむ人に寄り添う基本だと思うからだ。その上で、彼女の苦境を気付いてあげられなかったことを謝る。そして、話してくれたことがうれしかった、また、彼女の苦渋の選択が間違いでなかったと思うと、自分の気持ちを率直に伝える。さらに、親としての今後の責任を果たすことを彼女が考えているなら、それにできる限り協力し、支えたいという言葉をかけたい。
こう考えたのは、彼女の告白を聞き、ポストに預けたのは安易な気持ちではなく苦しい選択だったことが分かったからだ。そして、彼女は赤ちゃんを「捨てた」のではなく、この苦境をしのぐための方策として選んだこと。今後の責任も考えていることから、その気持ちを支えることこそ、今の自分にできることだと考えたからである。

○参考情報:日本に1つしかない「赤ちゃんポスト」行政の支援で増やす必要はあるのか?(yahooニュースオリジナル特集)