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補助資料2022文系

◇自殺幇助

自殺を手助けした事例として記憶に新しいのは京都市在住のALS患者を二人の医師が殺害した事件だ。患者は闘病生活の苦しさから、強く自殺を望んでいたという。二人の医師は、チューブで栄養を胃に直接送る「胃ろう」から薬物を注入したとされ嘱託殺人で逮捕、起訴されている。このように日本では自殺を手助けする行為は犯罪になる。しかし、外国には安楽死を認める国もある。そこで.同じことが行われれば犯罪にはならない。
国内では違法だが、国外では適法となる。こうした日本の現状に私は強い違和感を覚え、国外での行為を禁止すべきだと考える。行為の善悪の基準を定めることが法律の役割の一つである。善悪の基準は明確で、かつ一貫していなければならない。仮にケース・バイ・ケースで善悪を定めて良いことになれば、人間や社会は混乱するだろう。行為者の意志で人を死に至らしめることは、動機は何であれ殺人に他ならない。特定の行為に対する正義が国の内外で大きく異なる二重基準は、法律に対する信頼を損なう。
確かに、国外での行為を禁止することは難しい。しかし、刑法のように国外での犯罪を処罰する余地や方法はある。また、禁止するための根拠規定が現行法になければ、法律を制定または改正すれば良い。もちろん、それだけでなく自殺を強く望む人に対する社会的支援の拡充も必要だ。行為の事前と事後の両面で対処しなければ、問題の真の解決は難しい。

◇正論

正論は定義上誤りを含まない。その議論は事実に即し、論証過程に矛盾や飛躍を含まず、それでいて徳にも反していない。これが正論だ。自身の議論を「正論」と評価する人は、実際にそう思っているからこそ胸を張って議論の帰結を相手に提示する。それがいつなんどきでも万人に受け入れられると期待し、正論に挑む人を「論破」できると考える。しかし受け手はどうか。目の前で自信満々に展開される意見を聞き、 それを「正論だ」と感じるとき、同時にその帰結を受け入れないと感じているのではないか。もちろん見たところ誤りはないから、帰結の受け入れは理性ある者の義務だとも感じる。だがやはり「君の意見は正論、だけど⋯⋯」と立ち止まりたくなるのではないか。
そのような振る舞いが生じる理由のひとつは、人の思考の性質にある。人間の思考は理性よりも情動に依拠する判断を優先する。たとえば議論の帰結を受け入れるかどうかは、そこに嘘がないか、筋道が通っているかということより、誰が話しているかで決まることが多い。見た目が爽やかな人の話の方が、もっさりのったりした外見の人物の話より受け入れられやすい。正論の場合に問題になるのは、上からの物言いになりやすいことだ。正しさを強調する姿勢は偉そうであり嫌われる。もちろんそれは差別だし偏見だ。議論は誰が言ったかではなく、その中身で評価されるべきだろう。ても人間の根本に根差す性質だから、変えることは難しい。受験生が願書に澄まし顔の写真を貼るのも、政治家が選挙ポスターの写真映りにこだわるのもそれが理由だ。
だがそれより重要なのは問題の本質だ。正論において聞き手は観客でしかないということである。話し手が聞き手に期待するのは喝采(イイね)か退場(ミュートやブロック)である。議論の正しさは形式が保障しているから、そこに聞き手の出番はない。帰結に意見することも、問いかけることも期待されていない。このように正論は自己完結しており対話に開かれることがない。もし正論ではなく謬論なら、あるいはそれが何らかの帰結ではなく問いならば、人は議論に貢献しようとするだろう。繰り返される対話の過程で、人は人と何を共有し得るのかを発見し、違いを理解するに違いない。しかし自らが何ら貢献できない議論に人は知的な喜びを得ることがない。だから正論はつまらないとして遠ざけられるのである。