秋田大学医学部 推薦入試Ⅱ 2019年

【問題】

問1 筆者の言う「空気」と「水」とはどのようなものか。100字以内で述べなさい。

問2 筆者は「空気の拘束」から脱却するためには,どのようにしたらよいと言っているか。150字以内で述べなさい。

問3 あなた自身は,筆者の言う「空気」とどのように接していきたいと考えるか。300字以内で述べなさい。

「空気支配」の歴史は、いつごろから始まったのであろうか?もちろんその根は臨在感的把握そのものにあったのだが、猛威を振い出したのはおそらく近代化進行期で、徳川時代と明治初期には、少なくとも指導者[こは「空気」に支配されることを「恥」とする一面があったと思われる。「いやしくも男子たるものが、その場の空気に支配されて軽挙妄動するとは.… …」といった言葉に表われているように、人間とは「空気」に支配されてはならない存在であっても「いまの空気では仕方がない」と言ってよい存在ではなかったはずである。ところが昭和期に入るとともに「空気」の拘束力はしだいに強くなり、いつしか「その場の空気」「あの時代の空気」を、一種の不可抗力的拘束と考えるようになり、同時にそれに拘束されたことの証明が、個人の責任を免除するとさえ考えられるに至った。
現代でも抵抗がないわけではない。だが「水を差す」という通堂性的空気挑除の原則は結局、同根の別作用による空気の転位であっても抵抗ではない。従って別「空気」への転位ヘの抵抗が、現「空気」の維持・持続の強要という形で表われ、それが逆に空気支配の正当化を生むという悪循環を招来した。従って今では空気への抵抗そのものが罪悪視されるに至っている。これはロッキード事件で絶えず言われた「うやむやにするな」という言葉にも表われている。これはロッキード糾弾の「空気」をあくまでも維持せよとの主張と思うが、それでも結局「うやむや」になる。では一体なぜ「うやむや」になるのかは、稿を新たにして「うやむやの研究」として取り組むべき問題だが、この「うやむや化の原則」は、もちろん「空気と水」の関係に基づいている。
「ロッキード徹底追究」という「空気」には、否応なく「通常性の水」を差される。これはだれかが意識的に「水」を差そうとしなくても、「徹底追究」を叫ぶ人の通常性自体がその叫びに「水」を差しているのだから、その人が日本の通常性に生きている限り、その「空気」を「追求完了」まで持続さすことはできない。それは今太閣ブームを持続さすことができないのと同じである。
言うまでもないが、元来、何かを追究するといった根気のいる持続的・分析的な作業は、空気の醸成で推進・持続・完成できず、 空気に支配されず、それから独立し得てはじめて可能なはずである。従って、本当に持続的・分析的研究を行おうとすれば、空気に拘束されたり、空気の決定に左右されたりすることは障害になるだけである。その対象が何であれ、それを自己の通常性に組み込み、     追求自体を自己の通常性に化することによって、はじめて拘束を脱して自由発想の確保・持続が可能になる。空気で拘束しておいて追究せよと言うこと、いわば「拘束・追究」を一体化できると考えること自体が一つの矛盾である。これを矛盾と感じない間は、何事に対しても自由な発想に基づく追究は不可能である。言葉を換えれば、最初に記したように、 対象を臨在感的に把握することは追究の放棄だからである。
このことは「うやむやにするな」と叫びながら、なぜ「うやむや」になるかの原因を「うやむや」にしていることに気づかない点にも表われている。いわば「うやむや反対」の空気に拘束されているから″「うやむや」の原因の追究を「うやむや」にし、それで平気でいられる自己の心的態度の追究も「うやむや」にしている。これがすなわち「空気の拘束|_である。そして少なくとも昭和期以前の日本人にあった「その場の空気に左右される」ことを恥と考える心的態度の中には、この面における自己追究があったことは否定できない。
<中略>
われわれは戦後、自らの内なる儒教的精神体系を「伝統的な愚の部分」としてすでに表面的には一掃したから、残っているのは「空気」だけ。「現人神と進化論」といった形で自己を検証することはすでにできず、そのため、自らが従っている規範が如何なる伝統に基づいているかさえ把握できない。従ってそれが現実にわれわれにどう作用し、どう拘束しているかさえ、明らかでないから、何かに拘束されてもその対象は空気のごとくに捉え得ず、あるときはまるで「本能」のように各人の身についているという形で人びとを拘束している。これは公害問題などで、“科学上の問題”の最終的決定が別の基準で決定されていることにも表われているであろう。
結局、 民主主義の名の下に「消した」ものが、一応は消えてみえても、実体は目に見えぬ空気と透明の水に化してわれわれを拘束している。いかにその呪縛を解き、それから脱却するか。それにはそれを再把握すること。それだけが、それからの脱却の道である。人は、何かを把握したとき、今まで自分を拘束していたものを逆に自分で拘束し得て、すでに別の位置へと一歩進んでいるのである。人が「空気」を本当に把握し得たとき、その人は空気の拘束から脱却している。
人間の進歩は常にこのように遅々たる一歩の積み重ねであり、それ以外に進歩はあり得ない。本書によって人びとが自己を拘束している「空気」を把握し得、それによってその拘束から脱却し得たならば、この奇妙な研究の目的への第一歩が踏み出されたわけである。どうか本書が、そのために役立ってほしいと思う。<出典:山本七平「空気」の研究より抜粋、一部改変>

【解答例】

問1 「水を差す」という言葉には空気排除の印象があり別のもののようにも思える。しかし、実際に、それは空気の転位でしかない。「空気」は見えず「水」も透明で、自己を拘束する本質は同じだ。(88字)

問2 「空気の拘束」から脱却するためには、われわれを拘束している「空気」を「再把握」することが必要だ。それは、対象を「自己の通常性に組み込み、追究自体を自己の通常性に化する」ことでもある。これにより自由な発想に基づく探究が可能になる。人は自分を拘束していたものを逆に拘束し得れば、別の位置へと一歩進める。(149字)

問3 接し方を考えるときヒントになるのが「自己の通常性」という言葉だ。「空気」は匿名性が高く、それゆえに無責任だ。現代社会ではSNSやネットが、こうした「空気」を次々に生み出し、人びとはこれに拘束され右往左往する。そこには「自己」がない。カギ括弧をつけて表現したように、「自己」は一人ひとり違う。それは自分の視点で対象を把握し、考察した結果である。ただ、そうした「自己」があるだけでは不十分だ。いつも、どんな対象にもそうした構えをもつ「通常性」がなければ、「空気」の強い拘束力には抵抗できない。私も「空気」や「水」に流されず、その意味や無意味を問い続ける「自己」を大切にしたい。(284字)

【解説】
不可解な記述・説明が多く戸惑った人が多いと思います。知識型テストではないので、すべてを理解する必要はありません。必要最小限の理解で十分と割り切って、読解説明と見解論述を進める<要領の良さ>が必要な出題です。要領とは「物事の要点をつかんだ、うまい処理の仕方」で、この要点は設問で説明されています。それを以下に整理しました。

問1 「空気」と「水」の意味
問2 「空気の拘束」から脱却する方法
問3 筆者の言う「空気」との接し方

問1と問2は読解説明なので、課題文から「答え」を拾い上げる読み方をし、これらを踏まえて問3は自己の見解を自由に考えることが解答の基本です。空欄に「答え」や見解の主旨を明示することが、解答の準備になり、それらを簡潔に説明することで解答は仕上がります。
なお、特に意味不明だったと思われる言葉を、参考までに、以下に簡単に説明しました。

臨在感的把握:目には見えない何かが、あたかも実際に存在しているかのように感じること
ロッキード事件:同社の旅客機の受注をめぐる汚職事件で元首相をはじめとする政治家が逮捕された