秋田大学医学部 推薦入試Ⅱ 2016年

【問題】

以下の文章を読んで、設間に答えなさい。

問1 下線部(1)に、三者三様のひとたちとあるが、どのような人たちをさしているか。100字以内で述べなさい。

問2 下線部(2)の「クレーマーたち」に対し、あなたがソーシャルサービスの提供者となったとき、どのように接していけばよいと考えるか、150字以内で述べなさい。

問3 この文章に基づいてあなたの考えることを200字以内で述べなさい。ただし、“医師”と“責任”の二語を含めなさい。

「責任」という言葉は、往々にして大声で唱えられる。責任とは、ある事態を惹き起こす原因となる行為をなした者として、その結果に対して「咎(とが)」がある、したがってなんらかの「責め」を引き受けさせられるということである。「咎」を認めてみずから「責任」をとる場合ももちろんあるが、たいていは他者から指摘されて、あるいは判定されて、とらされるものである。とりわけ、あるのっぴきならない事態を前にして、それを惹き起こした原因となる行為がにわかに突き止めがたいとき、それはそれにかかわった特定のひとへの性急な責任追及になりがちである。だれも責任をとらない政治や、不正をくり返す企業へのひとびとの苛立ちが、たとえば謝罪会見という名の「責任追及」の儀式を厳しいものにすることがしばしばあるのは、よく知られていることである。責任の所在が複雑で見えにくいこと、あるいは責任を逸らす言辞の蔓延。そうした状況のなかで、ひとびとの苛立ちは飽和状態にいたる。だれかが責任をとるよりほかなくなるのである。そういう空気が支配しているところでは、ひとは、果てしないバッシングや追撃を怖れて、自分が責められないようあらかじめ手を打つことにやっきになる。……。
ここに(1)三者三様のひとたちがいる。
まずは、五木寛之さんと香山リカさんの対談『鬱の力』のなかで出てくる患者の話。香山さんが精神科医になったばかりの頃は、「うつ病」だと診断書に書かないでくれとよく患者さんに言われて困った。ところが最近は「うつ病」だと書いてほしいという患者さんが増えて困っているというのだ。「うつ的ですね」と言っても、「いえ、うつ病なんです」と言ってきかない患者さんもいるという。「うつ病」と「鬱な気分」とがごっちゃにされている、と。
「あなたの場合はうつ病と捉えなくても結構です。こういう悲しい出来事があったら、しばらく落ち込むのは当然ですから、時間が経てばちゃんと回復できますよ」と言っても、安心せず、逆に「じゃあ、私のこの気分は、いったいなんなんですか」と言い返される始始末。「病気じゃない」と言われても、当人は納得しないのだ。
なぜか、香山さんの理解はこうである―「ただの『鬱気分です』って言われてしまったら、あとは自分の考え方とか生き方とかに直面して、自分で取り組まなければいけない課題になってしまう。でも『うつ病』としいうことになれば、病人なんだから『お任せします』と言えば済む。受け身の立場で手当てされたい、ケアされたい、流行り言葉で言えば『癒されたい』ということにもあると思うんです」。
何をやってもうまくゆかない、なんか状況が塞いだままそこからうまく抜けだせないといったとき、ひとはその理由を知りたいと必死に思う。が、鬱ぎの理由というのはそうかんたんに見つかるものではない。けれども、解決されないままこの鬱いだ時間をくぐり抜けるのもしんどい。・・・・・。ということになれば、多くのひとが、自分のこの鬱ぎを説明してくれる「物語」があればすぐにそれに飛びつくというのは、見やすい道理である。わたしがいまこうでしかありえないのは、あのときあんな体験を強いられたからだ、出生をめぐるこういう状況があったからだ。そう、いま自分がこうでしかありえないのは自分のせいではない、あの「事件」が自分にこうした鬱ぎを強いているのだ・・・・・・。というわけである。「トラウマ」や「アダルトチルドレン」という言葉はそういうふうに使われた。
しんどさを自分の問題として引き受けるのではなく、自分が引き受けさせられている問題として受けとめる。「わたしが悪いのではない」「すぐに少しでも楽になりたい」、そんな気持ちがどこかできっと働きだしているのだろう。たしかに自分の鬱ぎが病気に起因する、あるいはわたしが過去に受けたひどい仕打ちに起因すると考えれば、楽になれる。「悪いのはわたしではない」のだから。
「悪いのはわたしではない」という、この切々とした、しかもちょっとわがままな訴えを「責任はわたしにはない」と言いかえれば、役人の逃げ口上となる。延々と弁解をつづけたり、逆に「遺憾に思います」と謝るふりしてじつは開きなおる役人。かれらの顔には「責任はわたしにはありません」と書いてある。責任がみずからにかからないようあらかじめ手を打つことにばかり、優れたその知性を用いているのではないかと勘ぐりたくなるような役人がたしかにいる。政治家もしばしば同じようにふるまう。ほんとうは「わたしが悪かった」と潔く言えるひとのほうがかえって信頼されるものなのに。
そして最後に、教育や医療といったソーシャル・サーヴィスの現場で、そのサーヴィスが滞ったり劣化したりしているように見えるとき、役所に猛烈な苦情や文句をぶつけるばかりで、みずから解決のために奔走することを考えもしない(2)「クレーマー」たち。税金を、あるいはサーヴィス料をちゃんと払っているのだから、わたしには落ち度はないというわけだ。「クレーマー」は他者の責任を問いつめるが、そのクレ―ムが「もっと安心してシステムにぶら下がれるようにしてほしい」という受け身の要求であることに気づいてぃない。多くの市民も陰に陽にそうした意識に染まっている。自分たちのそばで起こった難事も、役所に苦情や文句をぶつけるばかりで、みずから解決のために奔走することを避けている。「問題」を自分の「課題」として引き受けるということを避けている。そんな親をまねてか、この頃の学校では、授業がつまらないと、こましゃくれた生徒は「先生の教え方が悪い」とクレームをつけることも少なくないらしい。いずれにせよ、すぐに答えを求める気の短さと、責任を引き受けることから逃げて楽になりたいという気持ち。この二つのメンタリティがいつ頃からか、ひとびとのうちに平然と居座るようになった。
<出典:鷲田清一“わかりやすいはわかりにくい?一臨床哲学講座”から抜粋、一部改変>

【解答例】

問1 第一に自分の鬱ぎを説明してくれる「物語」に飛びつく人、第二に「悪いのは私ではない」と考えて楽になろうとする役人や政治家、第三に他者の責任を問い詰めるがみずから解決しようとしない「クレーマー」である。(99字)

問2 提供者と利用者との人間関係を基盤とするのがソーシャル・サーヴィスだ。そのため、「クレーマー」の要求を却下するのではなく、よく聴き理解を示すことで信頼関係を維持することを大切にしたい。ただ、それは無理な要求を認めることではない。相手を尊重しつつも、理由をあげて、できないことを明示することも必要だ。(148字)

問3 患者の不摂生による病気の悪化のように、医療現場では医師に責任がない症例も多い。だからと言って、患者の責任を指摘し叱責するのは、課題文中の「悪いのは私ではない」と考えるのと同じで無責任だ。なぜ、このような事態に陥ったのか、患者の側に立って思いをめぐらせ、どうすれば解決するのかをともに考えていくのが医師の責任である。そのような心理的な支えがあることで、患者は自らの責任に気づき、前向きに治療に取り組む。(200字)

【解説】

読解記述型の出題で、秋田大学医学部医学科の推薦入試Ⅱ、後期試験では頻出の型式です。解答のポイントは的確な記述。的(まと)は設問で明示されているので、これを正確に把握するようにしましょう。今回の出題テーマは医師-患者関係ですが、患者が“困った人たち”であることが特色です。そうした人たち、言い換えるなら、医師として直面する“困難”にどう対処するかが問われています。留意すべきは“困難”を相手ではなく自分の問題でもあると考えるしなやかさです。“困った人たち”問い一方的な決めつけが、問題解決をかえって困難にすることに気づきましょう。